アムステルダムってどんな町?
アムステルダムってどんな町?
🇩🇪 メルマガ「ドイツもこいつも. . . 」No.154
日本からのお客様より、台風が頻発していることを伺った矢先、偶然TVで、その様子を報道しておりました。関東地方を襲った台風25号。お亡くなりになられた方が5人いらっしゃったと聞いております。自然災害が多発している昨今。お悔み申し上げます。
先日ドイツで、地方選挙がございました。自然との共存を訴えた党があり、若い方達の大きな関心事になっていると聞きました。もうすでに産業形態もひと昔とは変わり、規制の政党を国民が選択しなくなってきている。それをこの選挙での投票結果が、如実に伝えているようです。
皆様お元気でおすごしでしょうか?
さて、本日のお題は、「時を超える不思議な出会いのある町@アムステルダム」でございます。
独身の頃、すでに大昔のこととなってしまい生ましたが、w 3年ほど自分の仕事でアムステルダムに住んでいたことがございました。
まず、人々があっけらかんとして、気さくなのに驚きました。日本とは大きな文化の違い、風習習慣の違いに戸惑ったことも多々ありました。
まさに、カルチャー・ショック
スキポール空港に到着し、同僚の方が迎えにきてくださり、自分のこれから住むアパートに車で送ってくださいました。
アパートの入り口で、誰も私のことを知っているわけもないのに、「ダ〜ッハ」と微笑みながら、手を振って挨拶してくる若い金髪の女性がいるではありませんか。
まさか、私に挨拶をしてくれてるとは、夢にも思わず、、しっかり無視をしておりました。。
が、どうやら私に声をかけて下さっているらしい。
この女性にしてみれば、日常的な小さな出来事だったに違いがありませんが、こういう対応に慣れていない、小さな島国からやってきた、私にしてみれば、この友好的なフリーなフィーリングは、その後私の人生のあらゆる場面で、脳裏を掠める、心地よい、「あ〜、ヨーロッパの人ってこういう風に、知らない人とも挨拶するんだな〜」というお手本となっていきました。
<アムステルダムの自転車>
旧市街中心部の道幅は狭く自動車の乗り入れも困難なため、トラムや自転車が主要交通手段になっています。
運河沿いや路地など細い道を除き自転車専用レーンが設けられ、信号は自動車や歩行者とは別に自転車専用信号が設置されていることが多いのです。
なお、自転車も道路右側を走ることが義務付けられており、自転車専用レーンであっても逆行は許されません。
アムステルダムは世界で最も自転車の走行しやすい都市のひとつとして知られており、自転車文化が発達しています。
何しろ、海を開拓して国を作ったという誇りが国民にあるほど。いわば山や丘などひとつもなく、土地は、限りなくまっ平!
一方で自転車の盗難も多く、自転車にかける鍵など、刑務所の鉄格子にかけるような、頑丈な立派な鍵がつけてあります。アムステルダムでは自転車はすべての社会階層の人々によって利用されており、小さなアムステルダムで自転車道の総延長は400kmにも及びます。
私も、ちなみに自転車に乗っておりました。足の短い私の自転車は、もちろん子供用。笑
オランダの自転車は、飾りがなく、色もグレーとか濃い緑色。ペダルにブレーキがついています。
さて、私の長い人生で、一つだけ、人様に話しをすると、度偉く褒められることがあります。
それは、ここアムステルダムで、自動車の普通免許を取得したということです。しかも、全然オランダ語が話せなかったのに、、。正に、まぐれ!!
オランダ人は、日本人と違って、型にハマったことに価値を見出さない、実にどうなのか!という点に価値を置く国民だと思いました。
オランダは中継ぎ貿易をして富を得た国であり、そのためには、語学に堪能である必要があります。文法的に見ると、オランダ語は、ドイツ語と英語の間に存在すると言われるほど、両言語の文法に似た要素があり、出会った人は、実に流暢に英語を話していました。
今自分が、ドイツ語を話すようになり、オランダ語を読むと、大体の意味がつかめます。
自動車教習所の実技は、日本のように敷地を持つ自動車学校がなく、いきなり路面に出ます。先生は、右側に座っており、先生の足元に専用のブレーキがあります。
初めての練習で、先生に運河に沿って、時速40Kmの速度で、走ってごらんと言われ、もう死ぬかと思うほど。怖かったのを覚えています。
学校の敷地に自分が通うのではなく、先生が待ち合わせの場所に時間になったら迎えにきてくれます。そして、1時間のレッスンが終わると、家につけるようにしたり、希望のところでおろしてもらえました。
半年くらい、練習したでしょうか。。ぺーパーテストをしてみたら?と勧められ試験勉強を始めました。言語は?というと英語で受けました。そのほか、ヨーロッパ言語仏語、独語、スペイン語、イタリア語等での受験は全て可能でした。
なんと、まだPCが発達していなかった時代でしたので、筆記で、しかも文章で答えるようになっていました。100問中の10問の意味を一生懸命考えていたら、時間が来てしまいました。。
「あら〜、」ってなわけで、英語での2度目の筆記試験のトライは、私には論外。
そんな中、嘆いていたら、オランダ人の友達が、「ユキコォ〜、オランダ語で試験受けてみなよ!」というではありませんか。。話を聞くと、何でも回答用紙に写真が出ていて、その写真には、ハイの Ja,イイエの Ne, がついていて、ただその二つのうちの一つを選べばいいとのこと。
ということは写真を見て、Ja とNeeを決めればいいのです。その日から写真を見てJa とNeeのリストを作り、その結果、おかげさまで合格の快挙をゲットすることができました!!
このアムステルダムでの複雑な道路事情、次に難しいのが欧州ではマドリッドと言われており、今思えば、よくやったな〜と自分でも驚いています。
<レンブラント>
この写真の国立美術館「ライクスミュージーアム」では、レンブラントの有名な絵画「夜警」を鑑賞することができます。

レンブラントは泣く子も黙る、17世紀を生きた、バロック期の「光と影」の手法で、世界に名を派した画家です。
彼以前の絵画では、見られなかった画面の一点にスポットライトを当てたこの手法は、絵画をより生き生きとした人間の心情をも深く感じさせる、革命的な絵画の歴史を変えたと言われています。

では、このレンブラントは、どういう人だったのか。
小さい時から、絵を描くのが好きで抜きん出た才能を持っていたと言われています。
飛び級で、ライデン大学に入学し、腕を磨いていきました。
このライデンという町、17世紀には、アムステルダムに次いで、オランダで第二番目に大きな歳だったとか。
27歳の時に、アムステルダムから今で言えば1時間半位北にある町、レーワルデンの市長の娘、サスキアと結婚します。
彼女には財産があり、そのお金で、新しい手法を生み出しでは、高価な「金」を絵画に用いて、見事な絵画を制作していきました。二人の浪費も並なものではなく、次第に借金をしながらも絵画を制作するようになっていました。
しかし、サスキアは、悲しいかな29歳の若さで世を去ります。
レンブラントは、サスキアを愛し、彼女の絵をたくさん描きます。彼女は、彼の絵画のモデルだったようです。
二人の間には、4人の子供が生まれましたが、生き残ったのは、そのうち息子一人だったそうです。。
このライクスミュージアムは、1日いても飽きない見どころの沢山ある博物館です。
近くには、ファン・ゴッホミュージアムもございます。
アムステルダムは、春のチューリップの咲く頃も素敵ですが、絵画を鑑賞したいのなら、秋冬もなかなか乙なもの。。
本日も最後までお読みいただきありがとうございました。
また、次の「ドイツもこいつも」でお会いできれば幸せです。
SEE YOU SOON💙
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